軽井沢への日帰り出張だった。昼前に出て夜にはもどるというハードスケジュール。帰りの新幹線の時間を誤認して、一本逃してしまった。1時間弱を棒に振ってしまったので、仕方なくスマホでできる連絡仕事だけ済ませることにした。駅の北口を出て、ペデストリアンデッキから緩やかな階段を下りる。朝から雨が振っていたが、さらに強くなっていた。階段の下にある喫煙所で凍えながら煙草を吸った。吸いながらスマホで連絡をする。電話をする。 新幹線の時間になっていそいそと駅に戻る。当初は事務所に戻って仕事の続きをしようかと思っていたのだが、新幹線を一つ逃したことで東京駅につくのが19時という微妙な時間になってしまった。「事務所に行って作業をして家に帰る」と「直帰して家で仕事する」だと単純計算で後者のほうが1時間ぐらいお得だ。ということで、東京駅から家に帰る中央線でこの文章を書いている。 家について野菜カレーを食い、とりあえず残りの仕事を締める。 バリューブックスで買った保坂和志『この人の閾』が届いていた。ちょっと前になにかのきっかけで保坂和志の小説論を読んで気になったので買った。が、今は読む気が起きないので積んでおく。たしか、保坂の小説論はテクスト論というより身体的にというか「読む私とその空間」が書かれているような気がしてよいなと思ったはずなのだが、この見解は妥当なのだろうか。自分は小説というか文芸全般に疎い。三島由紀夫すら読んでいない。かまいたちのトトロのネタのように、もはや読んでいないことを誇りにすら思っている。 そんな私でも保坂の『小説の自由』はわりと読み進めることができた。というのも、けっこうがっつりと小説の文章を引用してくれるからだ。適格に引用されたものに適格にかつ私的に分析を加えて積み上げていく手つきは面白い。批評というよりは、そういった独自の世界をつくることが小説的だと言っているような文章にみえる。固有名をカードゲームのように繰り出して注で補いながら文章自体の情報圧縮を究めた文章も元気なときには読める。が、日々読みたくなるのは、保坂のような、読んでいるだけで世界が積みあがっていくような文章だなと思う。