最近、なんだか車窓が気になっている。文字通りの意味でも、あるいはそこから想起される様々な空間についても。きっかけは何だったろうか。たぶん、ポール・ヴィリリオの本を読んでいたからで、おそらくこの一節である。 >二〇世紀末には、オーディオ・ヴィジュエルの乗り物の登場に伴い、究極的な変化に立ち会っているように思える。なぜならオーディオ・ヴィジュエルの乗り物とは、私たちの物理的移動に代わる「静止したままでの移送手段」であり、そのため家庭では動かずにいることが増え、最終的には不動状態の支配が予測できるからだ。 瞬間の君臨 : リアルタイム世界の構造と人間社会の行方 | Virilio,Paul,1932-2018 土屋,進,1949- p56 静止したままでの移送手段。スマホを予言していたかのようなその表現に、当時の予想があたっていてすごい、と言いたいわけではない。むしろ、幅の広い表現で、「手におさまる大きさのスクリーンで手で触れることで様々な情報に居乍らにしてアクセスできる機械」ぐらい言わないと当てたことにはならないだろう。しかし、ここで言われている抽象度を持った表現にこそ洞察のきっかけがある。 静止したままでの移送手段は何を実現して何を捨象するのか。実現したものはスマホがある今の世の中を見渡せば瞭然だろう。失ったのは間というか途中の空間だと思う。つまり、直接アクセスできるということは間が無いということで、そこにあるはずの空間が見えなくなっているということ。車窓はその途中の空間を見るフレームだ。だから気になっている。 昨日今日と雨が降っていたので、展示を見に出かけようとしてたのをやめた。夕方、濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を見た。車窓というところから触発されて思い出したのだった。物語の骨子や映画的な手法のあれこれは置いておいて、車窓的な空間について思うところがあった。 主人公の演出家・家福とドライバーのみさきが谷口吉生設計の「広島市環境局中工場」に途中下車するシーン。目的地を行き来するだけであれば必ずしも必要のない途中下車であり、平和記念公園から連なる軸線をネガとして映し出すその建物の下で二人は会話をする。やがて海の側へ抜け、護岸でみさきは彼女にとって重要な過去を語りだす。 この映画では車中でも重要な会話がなされるが、その途中とちゅうでもこういった「空間」でなにか重要な事柄が動き出す。途中の空間にはそういった人生を駆動する何かがある。静止したままでは起きえない偶然と会話がそこでは起こる。車窓から見える景色やその窓の外にある空間へ広がっていくこと。そういった身体の動きを拾い上げておくことは都市を考えるうえでは捨て置けないだろう。