図書館で借りてきた『美の味わい』を読んでいた。最初に掲載されているロメールのインタビューは1983年11月9日に行われており、カイエ以前からその時点におけるまでのロメールの変化や変わらない考えがよくわかる内容になっている。いくつか印象的な部分を引用してみよう。
> だからこそ私は1960年代の構造主義や言語学の傾向にはかなり反対していたのです。私にとって映画で重要なのは、バザンの用語をもう一度使えば、存在論であり言語ではありません。
>
> 美の味わい | エリック・ロメール p12
言語ではなく存在論。この少し手前でロメールはホークスには存在と外観の対立があって、彼は存在の映画作家だと言っている。存在に対比させられるのは無ではなく、外観であり、存在に対する存在であるらしい。ロメール自信はこれ以上展開できないと言っているが、ここてはすごく重要なことが言われている気がする。外観とは?物の表面であり空間を伴うものか?存在が担保されるのは無と対置させられるような形而上の話ではなく、外観というものや空間の中にあるからこそ、ということなのだろうか。
似たような対比をもう一つ。
> ――いつか「海辺のポーリーヌ』について、たとえ映画が苦しく、残酷で、死を含むようになっても、たとえばヴィム・ヴェンダースのような実存的な映画よりむしろ、ルノワールを継承する楽観主義的映画を支持するとあなたは発言しました。
E・Rその通り。私は映画の実存的魅力に非常に敏感です。たとえば、アントニオーニやヴィム・ヴェンダースにおけるような。それは現在の意見です。最近『都会のアリス』を見直しましたが、魅力的だと思いました。それは、私がかつてそうで あったように「楽観主義」的映画に味方することをさまたげるものではありません。
美の味わい | エリック・ロメール p11
実存と楽観主義。ロメールはサルトルの影響から実存主義に当初は入れ込んでいたものの、徐々に楽観主義的方向へとすすんでいく。それは存在から外観へと興味が移っていったということなのではないか。
インタビューの最後も引用しておこう。1983年時点でのロメールの考えがまとまっている。
> ER陰謀は、私のバルザック的側面です。私はよくたくさんのモラリストたち、ラクロや、マリヴォーやジャック・シャルドンヌ等私があまりよく読んでいない人々にたとえられます。そして、私はこう答えるのです。「否、私の作家とは彼らではない。それはバルザックとヴィクトール・ユゴーだ。」と。バルザック的とは、つまり、反実存主義、反ヌーヴォーロマン、モラヴィアやサルトルやベケット等に反対することです。バルザックの小説には会話の内容がありますが、二十世紀の小説には、会話はありますが、内容がありません。行間に意味があるのです。つまり人は平凡な文章を言うだけです。第二に、二十世紀の小説には、物事がおこり、人はそれに支配されるのですが、陰謀はありません。それは完全に流行遅れになってしまった。
美の味わい | エリック・ロメール p20
正直なところ、何を言ってるのかよくわからないが、反実存主義的なものを評価していることはわかる。会話には内容がなく、行間に意味がある。つまり、空間に意味があるということ。
ところで、ページをめくってつぎの章の最初のページを開くとレシートが挟まっていた。
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吉祥寺オデヲンの2022年11月2日のレシート。何を観たのかなと考えながらそのレシートをよく見ると、「点検」などと書いている。客のレシートではなく、映画館スタッフが業務中に出した点検レシートのようだ。それをしおりに使っていたのだな。シフトの休憩中にこの本を読んでいたのだろうか。
その映画館スタッフがおそらく読まずに本を返却してしまったであろうエッセイを読む。『映画−−空間の芸術』と題された文章はロメールによる映画空間の分析が記されている。
ひとつ、現在の状況に照らしても面白い指摘があった。
> 現代の観客(この場合、トーキーの誕生ではなく、暗示的な説話の技法が記述的な物語の形態にとって代わった時期が、進化の根本的な「転換点」をしるすことになる)は、あまりに長い間、視覚的記号を解釈することや、個々の映像が現前するということの存在理由を理解することに慣らされてきた。そのため、映像の外見の現実そのものに対する興味を失ってしまったのである。映画的スペクタクルは視覚体験としてよりも解読作業として、彼の前に現われるのである。彼の眼はもはや素朴なものではなく、何分間にもわたって、相も変わらぬ「殴り合い」をする二つの身体の絡み合いや、スクリーンを横断する死にもの狂いの馬の疾走に魅惑されることはないのであ
美の味わい | エリック・ロメール p33
無声映画の観客たちは、視覚的記号を解釈することに慣らされてきて、現実そのものに対する興味を失ってしまったという。考察ブーム真っ只中の今現在、同じことが起きている。ロメールは以下のように総括する。
> 現代の観客は、理解することを覚えると同時に、見ることを忘れたのである。そして、映画が我々に視覚的教育を施したとすれば、それは特定の形や運動の持つ純粋な意味作用に対して、我々をより敏感にしたということではない。そうではなく、映画がいまだ視覚の芸術である限りにおいて、我々は単に、映画のおかげで、一つの言語活動の意図するものを、より的確に把握できるようになった、ということである。そして、それは話し言葉と同じくらいにニュアンスや微妙さを備えているが、しかしほとんどの場合、それと同じくらいに慣習的なものにとどまっている言語活動なのである(14)。
美の味わい | エリック・ロメール pp34-35
慣習的な言語活動のつまらなさには共感する。理解はできても単に見ることができなくなってしまうと、横にすべっていって新しい空間にふと身を投じることもできなくなる。単に見ることは大事。でも、それだけでよいとも思わない。言語活動の中にしかないコミュニケーションもあるし、捨てられるものではない。結局はバランスというよりつまらない結論に陥りそうだが、ともかく、慣習的言語活動と単に見ることをいかに行き来するかという良き塩梅と方法論こそが求められているのだろう。